古庄嘉門について

 古庄嘉門

 およそ波乱万丈の生涯といっても、古庄嘉門はど変転の多いものはそう多くあるまい。

彼は医家に生まれながら医者にはならず、木下簳村簳村門下の四天王の一人といわれながら学者にもならず、二度も国事犯人として獄につながれ、出れば高等裁判所の判事となり、退いては紫黶会をおこし、官にはいっては知事になり、時あっては第一高等学校校長となって令名をわせ、或は遠く台湾に渡って死中に暴徒を鎮撫した。その容貌はいわゆるグジャッペ、その辺幅は極めて無頓着、しかも

その思想は一貫して国家主義であった。彼を政治家というべきか、教育家というべきか、人おのおの見るところによって違うであろうが、私は、彼は志を国家におき、身を国事に託した志士であったにちがいない。

 

 彼は天保十一年(1840)十二月一日に熊本市歩古小路に生れた。十六歳の時から木下簳村塾に入ったが同門に竹添進一郎、井上毅。木村弦雄らがいて、この三人に彼を加えて四天王といった。藩主細川護久は彼の人物を愛して進一郎とともに用いて奥羽の偵察をさせた。

 やがて御一新の政令がしかれ、彼は河上彦斉、木村弦雄らと豊後鶴崎に派遣され、有終館をおこして国境の警修と青少年の訓育にあたっがが。明治三年山口藩の大楽源太郎らの変がおこって、大楽らが遁れて鶴崎に身を詰めたことから両社の関係をにらまれ、ついに

有終館は解散になり、彼らが熊本にひきあげてくると捕吏は彼らの家を襲い、河上、木村らは捕われの身となった。ただ一人嘉門は身を以てのがれたが、これは彼の妻のシカの気転によるものであった。彼の妻は木村弦雄の妹である。

                                                  豊水

 

 

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