徳富蘇峰について

  徳富蘇峰についての事を暫く記述していませんでしたが、前回は彼が同志社大学を卒業まえに辞めて郷里の熊本に帰り大江義塾を

造り、自由民権運動が盛んになって来た事で話が終わっていたと思います。

その大江義塾に鹿児島県の麦の城から若き将来に託す人材が集まっきました。彼は、宮ノ城には、何回も熊本から行き、又、宮ノ城からも、大江義塾に来た若き青年たちとの交流が盛んになっていた折に

ある一つの疑問を抱き始めました。

それは、経済に関する事でした、当時の日本人自体には、経済の流通に関しては躊躇するものがありました、並びに当時の日本人はお金を扱うという事自体が何か汚いものでも扱うとう風潮がありました。それが、麦の城に行った目的だったとも言えましょう。

そのことについて、彼は、四国の板垣退助のもとを訪れます。板垣退助にそれらの疑問点を話すと、板垣退助の側近である馬場辰猪、がある一冊の経済論を唱えた書物を徳富蘇峰に与えます。

それを呼んで、徳富蘇峰は開眼します。どのような事かと申すと、いわば、需要と供給の関係にお金というのは重要な担い手である。

大きくいえば、当時、商船を作るのには、まず、設計士がいります。其の後、材料を買い集めなければなりません。

その時に、その対価に対して報酬を支払う義務が生じます。これが、経済の基であると痛感いたした次第であります。

 話は、それますが、日本で一番古い小学校を検索すれば、京都の何処小学校が日本一古い小学校だとウエブには書いてありますが、私は 宮之城島津家第15代島津久治が鹿児島県の宮ノ城に建立した盈進小学校だと思います。

                               民芸品 豊水

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