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ライフサポート須屋

JUGEMテーマ:

「ライフサポート須屋」

合志にある落ち着いた雰囲気の高齢者住宅「ライフサポート須屋」

北バイパス側にあり、熊本電鉄「堀川駅」から約徒歩8分の位置にある当施設!

線路の横にある、お庭は広く野菜を育てることもできるそうです!!

収穫した野菜が食事に出ることもあるとのこと!

3月にはは桜が綺麗に咲いています!

粋です!

日当たりのいい食堂ではお庭を眺めながら過ごすと、穏やかな時間が過ごせること間違いありません!

お風呂場では足の悪い方でも入浴しやすいように車いす用のシャワーチェアを完備!

お風呂もゆったりとくつろぎの時間をすごせそうです!!

居室には使い慣れたご自宅の家具を持ち込みが可能。

自由にレイアウトできます!

窓も大きく外がよく見えます!

エアコンも完備で室内温度の調整もばっちりです!

「ライフサポート須屋」様は、医療のバックアップもついており安心の高齢者住宅。

 

                オフィスひかり野

Three obligations of the Hosokawa clan (Mr.Harukaze Uno )

I thought about describing Mr.Sho Tokutomi  in the continuation of the previous time,
but this time I will talk about it and describe
what I felt wonderful,
when I was reading the history from the Warring States Period ,
 There was a thing that I thought about,
what it is said, what Hosokawa clan continues
even now from the Kamakura period to the Muromachi period,
the Warring States period, Oda Nobunaga, Toyotomi Hideyoshi,
the Edo period, the Showa era and the present age Why?
The answer was taught from the director of Goto Koyama Memorial Museum.
There are three obligations to Mr. Hosokawa for that,
Firstly, in the era of Hideyoshi, Hosokawa Tadaoki, when public,
Mr. Hosokawa ,Ieyasu when someone told Hideyoshi to be honored by Hideyoshi,
Believe that Hideyoshi was forgiven for sins without such a thing.
Secondly, Hosokawa clan's 2nd generation lord Mitsutoshi, Mitsunao prefers to die prematurely,
That child Tsunagikoku (lord of 3 generations) was then 6 years old,
When everyone thought that there would be a subsequent transfer as it is too young,
The shogunate is an obligation that judged that it is all right to name it as the father's success.

Thirdly, the older brother Mr. Shigekata of the 6th generation
 lordship Munetaka (the lord of 5 generations)
at Edo Castle Mr. Katukane Itakura In the public
there is a grudge against relatives, the crest of the same crest is the same
 Because I accidentally killed Mr.Munetaka Hosokawa, it is that there is no face
as a samurai as a way to be killed without missing at this time, much more even
Ako did every riot, so Higo Although it was rumored that
there is a considerable reproach in the clan,
in the end the shogunate said that the gratitude
for judging it as nothing, due to these obligations
it was decided that it would have been safe
until now without any reworked transfer.

Mr.Harukaze Uno  seems to describe these in detail
 (Meiji Restoration and Higo clan) in the books.

細川藩の3つの恩義(宇野春風氏)

 前回の続き徳富蘇峰氏についてを記述しようと思いましたが、今回は、話をそれまして、今まで不思議に感じたことを記述します それは、戦国時代からの歴史を読んでいた時に、ふと考えた事がありました、どういうことかと申せば、鎌倉時代から室町時代、戦国時代、織田信長、豊臣秀吉、江戸時代、昭和時代、現代にかけて、細川藩が今でも現存続いているのは何故だろうと。

その答えは、後藤是山記念館の館長さんから教えてもらいました。

それには、細川氏には3つの恩義という事があり、第一には、秀吉の時代に 細川忠興公の時に、秀吉に讒言した者がいて、秀吉に誅せられんとした時に家康が細川氏は、そんな事がないと秀吉に罪を許された事の恩義。

 第二には、細川藩2代藩主 光尚公が、今で言う早死にをいたし、その子綱利公(3代藩主)が当時6歳であり、余りにも幼すぎるので後移封があるであろうと誰もが考えた時に、幕府は父祖の功という大義名分で大丈夫だと判断してくれた恩義。

 第三には、6代藩主重賢公の兄 宗考公(5代藩主)が江戸城にて 旗本 板倉勝該公には親戚の者に私怨があって、その人の家紋が同じ九曜紋であったので、宗考公を見誤って殺してしまいました、この時に抜きあいもせず討たれるということは、武士として面目もないことである、まして赤穂でさえも騒動ごとをしたんだから、肥後藩にも相当なお咎めがあると噂されましたが、結局は幕府はお咎め無しと判断してくれた恩義、これらの恩義により改易移封がなく無事現代まで続くことになったそうです。

 宇野春風氏は、これらの事に関しては(明治維新と肥後藩)の書物の中には詳細に記述してあるそうです。

 

                        豊水

オレンジカフェとは

JUGEMテーマ:日常

江戸時代初期に鍋島藩士 現在の佐賀県に
酒井田柿右衛門という陶工がこの赤絵磁気の色を夕日が沈む事にヒントをえて、
赤絵磁気の焼付けを成し遂げました。その後に、この赤絵磁気がヨーロッパ、海外に
に輸出され有名になりました。
オレンジ色が何ゆえに認知症サポータの色になったのには、
この赤絵磁気が有名になったように。
柿の色--------つまりオレンジ色が認知症サポーターの色として
世界中に認められるようにとの思いが込められているからです。
認知症サポーターとは、認知症に対する正しい知識と理解を持ち、地域で認知症の人やその家族に対してできる範囲
で手助けすることを目的としています。
また、前述したようにオレンジの意味として認知症サポータの証しである、オレンジのリングを着けるようになりました。
同じくカフェの意味には人が集まり、新聞雑誌が読め、そこで情報交換をするという意味があります。
これらの事により、オレンジカフェと呼ばれるようになりました。

 

                   株式会社 オフィス ひかり野

 

 

About Soho Tokutomi

I mentioned earlier that Soho Tokutomi quit before Doshisha University graduation, but I will write the reason for this time.
In Kumamoto, there is an old school medical school, Mr. Sibasaburo Kitasato, including Masanori Ogata, the only, Shinjiro Okubo from Kao town, the farmer's child comes out.
As a result of these serious alumni, They were proceeded to the Tokyo Medical School, but when Shinjiro Okubo  was carrying a boarding house in Tokyo, from Kajiko Yajima (at that time she was a teacher at a girls school and outside Teacher's salary was 3 yen, Kajiko got a high wage of 5 yen.) As a result of receiving money aid, Shinjiro himself decided to leave as it is and quit Tokyo medical school he had gone.
After that, he had decided to go to Doshisha University on the basis of Joh Niijima.
After this ,the person called Shinjiro is a person with a different personality and on the blackboard of Doshisha University, it was better to sleep with a prostitute hugged than to become a slave of the feet better "and he had quit Doshisha in this way University conflict and immediate undergraduate Soho Tokutomi had quit Doshisha.

 

Continue to next time  Toyomizu

徳富蘇峰について(3)

先だって、徳富蘇峰が同志社大学卒業を控えた前に辞めてしまいましたと記述しましたが、その理由を今回は書こうと思います。

熊本には、古城医学校というのがありまして、北里柴三郎はじめ緒方正規、唯一、農民の子の出である鹿央町出身の大久保真次郎らがおりました。この方々は、大変な俊才でのちには、東京医学校に進みましたが、その大久保真次郎が東京にい下宿していた折に、矢島楫子から(当時は女学校の教員をしており外の教員の給料が3円の頃、楫子は5円の高賃金を貰っておりました。)資金の援助を頂戴していた事で真次郎自体が、このままではいけないと決心を致し東京医学校を辞めてしまいました。その後、新島襄を頼りに同志社大学へと進むことになりました。この後に真次郎という人は、性格が別格の人なりで同志社大学の黒板に”足下の奴隷となるよりも娼婦を抱いて寝たほうがましだ”ど描いて同志社を辞めてしまいます、このことで大学紛争ととなり下級生である徳富蘇峰は同志社を辞めてしまいました。

 次回に続く 豊水